完全に根本主義的になって、すべてを含む霊にしたがって歩く


新エルサレムに関する真理

 過去七十二年間という回復の歴史の中で、主はさらに多くの真理を回復するために前進し続けてこられました。特に、彼は啓示録第二一章と第二二章の新エルサレムに関する真理を回復されました。多くの聖書注解者たちは、新エルサレムに対する正しい理解を持っていません。新エルサレムの霊的な意義について執筆した聖書教師は皆無に等しいです。その中の数少ない一人が、テルスティーゲンと呼ばれる大昔のドイツ人教師と、わたしたちの親愛なる友人であるT・オースチン・スパークスです。わたしはスパークスのことを「内なる命」を教える最後の教師と考えています。テルスティーゲン同様、T・オースチン・スパークスは新エルサレムを物質の都としてではなく、霊的な意義を持った一つのしるしとして見ています。スパークス兄弟は、神とキリストと召会に関する霊的な事柄は奥義であって、神はそのような霊的な事柄に関する真理を啓示するためにさまざまなしるしを用いておられると指摘しました。わたしたちは彼のこの言葉を信じ、今でも支持しています。  啓示録はしるしの言葉をもって始まっています。「イエス・キリストの啓示。これは、すぐにも起こるべき事を、神が彼の奴隷たちに示すために、彼に与えられたものである。彼はそれを彼の御使いによって、彼の奴隷ヨハネに送り、しるしによって示された」。これは、この書の啓示が霊的な意義を伴ったしるし、すなわち、表徴から成っていることを示しています。例えば、七つの燭台は七つの召会を表徴し、小羊は唯一のいけにえとして、神の永遠の贖いを達成された贖い主キリストを表徴しています。新エルサレムでさえ一つのしるしであり、しかも、それは最後の究極的なしるしであって、神のエコノミーの究極的な完成を表徴しています。過去五十年の間に、新エルサレムに関する真理はますますわたしたちに明らかになってきました。その結果、わたしたちの詩歌には、新エルサレムについて書かれたものが多くあります。