完全に根本主義的になって、すべてを含む霊にしたがって歩く


神化に関する真理、すなわち、神が人になったのは、
人が神格においてではなく、命と性質において
神となるためであるという真理

 わたしたちが完全に根本主義的であろうとするなら、すべての真理に対してそうでなければなりません。数多い真理の中に、二世紀の教会教父たちによって見いだされた三つの偉大な奥義があります。(一)神聖な三一の奥義、(二)キリストのパースンの奥義、(三)人の神化に関する奥義、すなわち、神が人になったのは、人が神格においてではなく、命と性質において神となるためです。クリスチャンたちは三一の神とキリストのパースンに関する真理を保持しているとは言え、五世紀を過ぎたあたりから、神化に関する真理は次第に失われていきました。今年(このライフスタディは、一九九四年の冬の訓練で行なわれた)二月に、わたしはこの真理を解き放す負担を持ったのです。  神が人となったのは、人が命と性質において神となるためであると聖徒たちに語り始めた後、わたしはカトリック教会もこの神化に注意を払っていることを知りました。それから間もなくして、一人の兄弟が最近、ローマ・カトリックから出版された、「カトリック教会の教理問答書」をわたしに見せてくれました。それには次のようなことが書かれています。
第三条
「彼は聖霊の力によって身ごもられて、処女マリヤから生まれた」
第一項 神の御子が人と成られた
一 なぜ言は肉体と成ったのか?
四六〇 言は肉体と成り、わたしたちを「神聖な性質にあずかる者」(第二ペテロ一・四)とならせました。「このために、言は人と成り、神の御子は人の子と成ったのですが、それは、人が言との交わりの中に入って、神聖な子たる身分を得ることによって、神の子となるためです」(聖エイレナイオス、「異端反駁」三・十九・一)。「神の御子が人と成ったのは、わたしたちが神となるためです」(聖アタナシオス、「受肉論」五四・三)。「『神のひとり子は、わたしたちを神性にあずからせることを望んで、わたしたちの性質を身につけられましたが、それは彼が人となり、人を神とならせるためです』」(聖トマス・アクィナス、「小論文(Opuscule)」五七・一―四)。(「カトリック教会のカテキズム(公教要理)」一一五―一一六ページ)。
 ここで、わたしたちはキリストにある信者が神となることができると、カトリック教会が教えているのを見ます。さらに別の兄弟が同じように、人が神となることについて、カトリックの祭司によってアラビア語で書かれた一冊の本をわたしに見せてくれました。完全に根本主義的であるためには、わたしたちはこの大いなる真理、すなわち、神が人になったのは、人が神格においてではなく、命と性質において神となることに関する真理についてはっきりしている必要があります。